昭和44年7月29日朝の御理解                                                          入力者大坪謙一                                          御理解第四十八節・・・「我が子の病気でもかわいい、かわいいと思うてうろたえると いけんぞと、言う事を聞かぬ時ママよと思うて、ほっておくような気になって信心してやれ、おかげが受けられる」と。これはまぁ大変な難しい事ですね。                                                  かわいい子供の病気をほっておくようなきになってとおっしゃるんですから、そういう 境地というか、んー信心はとても二年、三年でえー頂けようとは思われません。    この我が子の病気でもと言うことは、まぁ一番かわいいもの。ね、子供といや情の点に おいてもかわいうてたまらんのが子供である。                                                           だからこりゃ例えば我が子そういう大事なものという事は、大変なことと言うてもよかろうと、大変なものと言うてもよかろうと。ね、例えばそういうような、あー大変なものとか、事とかと言ったような事柄の場合であってもです。それをやはりほっておくような気になって信心するという事が、このここで言われるおかげを受けられる一つのこれはおかげを受けて行くコツとも言えましょう。                                                              ね。ならかならずしもこうならなくてもただ我が子かわいいの一心。ただ我が子かわいいの一念・・・ね、それで「どうぞお願いいたします、お願いいたします」とそれどもやはり、おかげを受けられます・・・ね、それは、えーおかげというのは、もうその現れからというよりも千差万別ですから。けれども私どもがここで思わせてもらうことは、   あー、これほどしの信心。ね、一番大事なもの、大事な事柄、大変なこと。まぁここで 言うならば、「かわいうてたまらん」という自分の我が子の事であっても、ね。    それをほっておくような気になるとういう、そういう私はおかげ・・・。                                               これは放任主婦というのとは全然違うわけですね。放任しておる。「どうとかなろう」と言ったようなものではない。「ほっておくような気になって」というのですから・・・。だからそのほっておくような気になるという事がおかげなんです。そういう風になれれるという事がおかげなんです・・・ね。例えばどのような心配事が起こってまいりましても、それをほっておくような気になれるという事は、ありがたい事だ。それがおかげなんです。                                        ね。同時にそういう心の状態にまた、それが病気であるならば病気が治るというおかげになるだろう。おー、金銭の問題であるならば金銭のお繰り合わせを頂くであろう。   ね、さまざまなその、おー大事な物とか大事な事柄と大変な事柄といったような事柄がです。私は神様のおかげでそれは解決のおかげになって行くだろうと。ですからそういう時にままよという心になれると。ね。ここでいうままよというのは放任ではなくてです。 ね、神様にすがっての事です。                                                                  ままよという心持ちになって神様にすがる・・・ね、「そういう気になって信心してやれ」とおっしゃる・・・。これはどういう事だろうかとこう思うんですけれども。   これは一つの、おー神様の世界というかそういう一つの約束というものがあるんですね。そういう一つの約束。決まりと言ったようなものがあるのですね。                                                  私どもがそういう心の状態を開いた時にはですね、もうそれがこれは五と五を足せば十になるといったようにですね、もう計算ができるんです。先日のあのー、昼のあのー、  神徳を科学するなんて言ったようなね、御理解を頂いたでしょ。昼の御祈念の時に・・。というような事のようにですね、そのおかげを科学するとしてまいりますとですね、  そこが分かるんです。「おかげっていうのはだいたいどうして現れてくるのであろう」 「どうしてこの様な不思議な事になってくるのであろう」世の中ではそれを不思議と言い、奇跡と言うが、そういう奇跡な事がどうしておきてくるのであろうかと。

ね、これはですからまぁ言うならば、もう当然の事としておかげが受けられるんです。 そういう気持ちを私どもが開いた時。ね、まぁ例えばです、どんなに自分が大事にしておるものでもです。「もういらんぞ」というような気持ちになる時です。どんなにかわゆいてたまらん子供でもです。ままよと言う事で「死んだっちゃよか」というような気持ちになると言う事ですから、大変な事です(笑い)。というような気になって信心してやれ、おかげが受けらえれると・・・。

ね、ですからそういう例えばこのおかげというものをですね、いわいる科学する事ができるわけです。その科学した結果がどういう事になるかというと、おー、ね、そういう心の状態になればです、もう神様がおかげを下されなければならないようになってるんです。ね、それを法則といったような言葉いうてもいいでしょうね・・・・。

例えば、言うならば十円の商品を十円持って行きゃ当然の事としてその向こうの商品を持って帰られるようなもんです。ね、ところがあー十円は持って行かんで、五円ぐらいしか持っていかんで「十円のものばくれ」と言ったようなことを言うては、言うたってその 十円の商品をもらえるはずはありませんものね。                                                          けれども信心はそこんにきですね、そのここの最後んところの「おかげが受けられる」というこのおかげっていう事は、いわいる千差万別と言う事を申しましたが、もーまぁ場合によってはですね、十円の品物を五円持って行ってもろうてくることもありゃ、お金も 持って行かずになんにもそれこそ手形一つなしにです、貸してもらえるというような  おかげもあるわけです。

場合には(?)で無断でとってくるといったようなおかげもあるのですよ。      もうおかげにはもう、だから千差万別です。そこで信心させて頂いて、言わばものの天地の道理とて申しましょうかね、が段々分かってまいりますとですたい、そういう取ってきたり、買ってきたり、えー(?)やってもう買うてくるといったようなものではなくてです。

ね、全額払うてそれが当然の事として頂けるようなおかげの道を私は科学すると言うてもよかろうと思うですね。ひとつの学問に、えーまぁ(?)をたてて説明するとそういう事になるんじゃないかとこう思います・・・ね、私どもが、真にありがたいという心を開く。「真にありがたいと思う心がすぐに御陰の始め」とこれなんかでもやはりそうです。  

私どもが「真にありがたいなぁ~」とこう思わせて頂けたらですね、もうそこからおかげが始まるんです。これなんはもう、真にありがたいという心にはね、神様も言わばこうしようがあんなさらん。文句をいいつけようがあんなさらんのですよ。ね当然の事として、当たり前の事として真にありがたいという心が開けてくるとそこからおかげが受けられるとこういうてある。

ですからそれも私どもの場合、場合によってはですね取ってくるようなおかげも、または(?)で、えー貰わねばならんようなおかげの場合もそりゃありますけれどもです。  結局私どもが信心させて頂いて分からせて頂きたい事はです。当然の事として頂けるようなおかげ。言うならばもう願わんでも頂けれるおかげ。そういう境地、そういう心持ちを開かせて頂く為に信心修行させてもろうたり、言わば共学を勉強したり、神徳を科学したりする稽古をこうして一生懸命皆さんなさるわけなんであります。   

ね。そういう理論の上に立った、例えばですねこういう事になればこうなると、ね  五と五を足せば十になるというその事をです私どもが覚えさせてもらう。そすと「あー先生お願いします、先生お願いします」ばっかりのご信心ではいけないという事が分かります。ね、そこで本気で教えを受けよう、本気で修行もさせて頂こうという本当は信心の姿勢がそこから出てくるわけでございます。

ね、ただ「先生お願いします、先生お願いします」と言うのはです。それこそなーにも その手形も持たずにです、ひきあても持たずにです。その商品を下さい下さいというのと同じですよ。ですからそれは必ず借りになっとりますから、これは神様がある時にここらの、初代桂先生に仰せられた。「桂松平、難事が徳を受けて、ね、願いでてくる氏子達におかげの貸し付けをしておけ」とおっしゃった。

ね、先生の徳で、先生の神意をさっさとおかげの貸し付けを受けてそれでただ悦に行っておるような信心じゃいけないということ・・・ね、そして最後に「この世で払えん時にはね、あの世までも神が取りに行ってやるぞ」とおっしゃったそうです。あの世までも借金取られに来られたらかなわんでしょうが。

けれどもそういうおかげもあるということです。ね、ですからおかげを受けたからというて一ぺんお礼参りをすりゃすんだといったような事ではいけないような事も段々分かってまいります・・・昨日中島の上滝さんがお礼に出てまいりましてから。「先生もう本当にあの、不思議なおかげを頂いとります」とこう言う。

ちょうど去年の今頃はもう死ぬか生きるかというような、あーもうお医者さんも請負きらんと言いなさるような病気で入院しておりました。それも不思議な不思議な病気でした。ね、例えば頭がガクッと後ろえ下がったら上さんに自分に力じゃ上がらん。手でこうやって押せえにゃこて首が上がらんっちいうような病気でした。

だから原因不明は分からんのです、ね。瞬間そのご都合であったと私は思うですけれども。もうその本当に一生懸命そん時におすがりして神様にそれこそ条件を「今度おかげを頂いたら、こうもします、あぁもします」と言ったようなです、そしたら昨日本当におかげを頂いてお礼に出らにゃならんと思うてから(  ?  )そのー宅祭りを2回しようと おっしゃった。年に2回。

それは勿論神様にいろいろその「良くなったらこうもします、あぁもします」と言うとっていっちょんその実行しないでしょうが。月次祭なんかにまぁお神酒の一本も持ってお参りをすりゃそれでいや事たるとは思ってないです。これすら言ですから、ほんなこっちゃ合いすまんばってんと思うとるです。けれども(?)信心なもんですから、神様が「宅末式をもういっぺんせろ」とおっしゃった。だから私がそりゃ上滝さん、えー宅祭りば、2へんもせんならんという意味じゃないよと私が、宅祭りという事は、謝恩祭ということ、ね、いわいる謝恩の信心がでけにゃならんよと言うこと。

まぁあんたが場合は今なぁーに願うことなし、もうあれもこれもおかげだらけじゃけん あんた、お礼参りだけでさせてもらわなならん。お礼参りを一生懸命させてもらわんならん。ね、それがその病気おかげを頂いて退院しておかげを頂いてまいりました最近その 頭が非常にこうスッきりしないわけなんですね。

そしてこう沢山の人の所に前に出らりするとそれが非常にこう苦痛を感ずるというのですね・・・。ところがその、んーこれはまぁ四、五日前だったら一緒に話すんですが、でもあちらのおばあちゃんがこーう、まぁ寝てある時かなんかでしょうかね、こんな太ももにあのー(笑い)ハチがさしたそうですたい。ほれでもう(笑い)その寝ちゃる時に刺したっちゃけんモヤモヤしてから、「バチッ」っちそのもうはちを踏み殺しまいなさったそうなんです。

そしてからその上滝さん(?)「本当にもう、モヤモヤしたけんあたいはもうハチを踏み殺してしまった」っち言うちから、その「でもあなたそげん踏み殺してっちゃあんた、 そげん別にあんた、あんたがハチが悪こしたけんハチが腹けいちから、あんたんせいた」っち言う訳でもなしにですね。ただ何でもなしにあんたに止まったつをあんたが手ではらおうかどうかした(   ?   )にです。刺したっちゃけんそげんあんた踏み殺さんでよか(?)っちその、まぁ自分が言うとったっち言うんです。

それから二日後にその、言わば昨日ですか一昨日じゃない。ハチから子供を叔母車に乗せちからそして私がこうやって行きとったと・・・。そしたらなんか後ろどころでチカっとそたごたるけん(笑い)(どうも近くに飛ぶ?)後ろばハチが刺しとるそうです。   ね、そのと気にですねその瞬間にその上滝さんが考えたっち言うんですよ。この前お参りした時に親先生が○「上滝さん、一分間早い遅いでおかげがきまるよ」って言われた。 それを思い出したっち言うんですね、その瞬間。

「はぁー、一分間早かったらこげなん災難にもあわんものに」と、ね、一分間遅かったらですこういうおかげにもなっとるとにと言うて、その一分間でおかげが決るよち。   という事を思い出さして頂いて、上滝さんが言うのにです。「私が一分間早うここに来とるか、また来とらなかったならばこのハチに刺される事もなかったろう」そのおばあちゃんに言うたようにです。刺そうと思うて刺したんじゃない。

私が悪い事したから腹かいてさしたわけでもないのですから、本当にここに神様が一分間早い遅いでハチに刺されんですむところをです、ハチに刺されたという事は「こりゃー御神意があろう」とそん時思うたち言うんです。思うたら( ? )前にそのハチがその止まっとったけれども、それこそ叩こうとも、踏み殺そうとも思わなかったとこう言うんです。

ね、私はその話を聞かせて頂きよりましてですね、「真にありがたいと思う心はすぐに御かげの始まめ」と頂いておるがですね、こりゃ真にありがたいと思わんでもす、神様が真にありがたいと思いなさるようなこちらが状態になったらおかげを受けられると言う事です。

ね、例えて言うなら育てておる子供がです「はぁーもうこういう(こうしょう?)な事が分かるようになったと、ね「はぁー教えもせんとにこげな事が出来るようになった」と 例えば、親は子供の成長を見て喜ぶようにですね、上滝さんがその思うた事、それは  「はぁー」ね上滝さんの心の中に真にありがたいと言ったようなものがあったはずわないのですから、ね、神様の方がありがたいと思いなはったんでしょうね。

ところがですね、痛まずにジンジンジンジンっときたそうです。「そしたら先生それっきり、その今までの頭のぼやーっとしとったそれがすっきりしとります」っち。
ほう、「あんたもう神様からそりゃもう注射して頂いたったい」っち私が申しました。 そして、昨日から今日になりますけれども「ほんに頭がすっきりしとる」とこう言うです。

それで、えー嫁子やら息子達にその事を話すと「そりゃーだけん偶然たい」とか、あー 「そげなこつがあるもの」とかて申しますけれどもです。「私はもう本当に不思議なおかげと思うて今日お礼にでてきた」と言うわけなんですよ・・・ね。          ですからそのおかげが受けられるというそのおかげはね、私はここに四十八節にそのあるうようなこういう素晴らしい境地を開かせて頂くことのために、神様が分かり、信心が分かるその為に共学もする、ね、それを例えば、んならそれこそ科学をするようにその事柄というものを文責してです。

おかげならおかげというものを文責してです「どうしてこのような奇跡な事が起こってくるか」と、例えば今の奇跡ですよね、上滝さんのどういう、そういう奇跡な事が起こってくるかと、それは、上滝さんがこういう心の状態になった時に、その事は、氏子のありがたいではなくて神様がありがたいと感じなさったらそれがそういうおかげになって現れてきておるということ。

いう風にまぁ説明ができるわけなんです。んなら「私も今度はハチから刺された時そげな気持ちになろう」と、ね、今度子供が病気したっちゃもういよいよほった気持ちでと、
ところがさぁその時、その時にです。そういう風に思えないところに、いわいる心のデリケートさと言うかね。分かっておるようであって分かっておらんという事になってくるのですよ。

だから本当言うたら、もっと素晴らしい事が思えれる、もっと素晴らしい事が行の上に現される。ならここに子供の病気といったようなことにでもです。ここにあるもっと素晴らしい境地もまたあろうと私は思う。限りがないのだ。

ね・・・。昨日は竹葉会の人がもう最近の竹葉会の、というのは本当に目覚しいです。本当にもーう、主人が一生懸命、親が一生懸命だから、そのー家では信心の下済みでもうお参りが出来ない人達ばっかりですよね、普通は。若い嫁さん達ばっかりの会ですから。
ですからもう月に一回という事に非常にその執念のようなものを掛けとるです。
みんなが。だから今度はこれを頂かにゃだから一月前の(  ?  )たことそですね、一月間行ずる。先月はもうみんなで腹を立てまい。そこから生まれてくる体験をこの次の、んー「会合の時に発表し合おう」と言うてその発表をみんなしておられます。

ね。お参りができんからもう腹を立てん。腹を立てんという事に一生懸命それこそお参りが出来ないからたった一回のお参りに執念をかけるように、その腹を立てまいという事に、執念を、そして腹が立つという事がです、どうして立つのか、それはどういう風に処理されるのか、それを心の状態一つではですもう見事に腹が立たん、ありがたいで受けていかれるかといったような事の体験をずーっと積んできているわけ。

ね。お父さんが毎朝お参りしなさるから、ね、お母さんが毎日参んなさるから、主人が毎日参っておるから。自分はもう月に何回か、または、あーほとんどの人が月に昨日という二十八日一回しか参ってこれんのです。ですからその願い思いっていうのが非常に強い。 初めの間は、これは竹葉会がこうして出来たけれども、これはもうママさんの悪口ばっかりのごたる風で主人の悪口ばっかり(?)て、こりゃかえっていかんのじゃなかろうかとさえ(?)されるような会でしたこの会は。

けれども私最近思うのは、もう最近の信心教励の会ではもう竹葉会が一番です。
もう実に徹底した信心の教励をされます・・・ありゃもう本当にみなさんに一遍その雰囲気をあの見られたら、見られた者もおかげ頂くという感じです。昨日ちょうど熊本あのー熊本の富永先生たちが夫婦でおかげ頂いとりましたから、参加してから、たまがっとられました。若い嫁さん達がその言われる事がもう実に素晴らしいわけなんですよね。
本当に素晴らしいんですよ。

うん。ですから、あーそれをちょうど昨日(繁雄さん?)も残っておられましたから、あ、(繁雄さん?)も最後にそのまぁ姑としてのですかね、嫁に願い、まぁ話の題をつけるならそういうような題になるうんじゃないでしょうかね、姑として嫁への願いといったようなことをですね、その話しておられます。「はぁーそげなこっちゃほんにしらじゃった」(そういう事とは本当に知らなかった)「まぁそういう事もあろう」と言ったようにですね、みんながまぁ感銘を受けたわけですが。

富永先生も一つ短い話、短いお話でしたけれども、お話をしておられましたが、その短いお話の中に素晴らしい事を私は聞かせて頂いたんです。というのはこういう事を言ってありますね。ある人がその熱心に信心してするんだそうで、近所にもうそれっこそもう言わば悪人ですたいね言うならば。もう根性の悪してからほんなこて(本当に)(  ? )ち言うごたる風な人らしいんですよ。

それで「あぁげな奴がどうして早死にせんでしょうかのうや」ち言うちからその先生(?)なさる。「もうあげな悪か奴( ? )のもう人をいじめる、(人をけなす?)」と言うようなその「あげな人間が天地の親神様は、なし早殺しなさらんじゃろうか」と言うてその、んーお伺いした時に「私はこう申しました」っち言うてから言われるんです。(笑い)それはどういう事を言うておられるかと言うとですね「まぁだあの人にも御用があるからですよ」っち言うたっち。それけん聞いたその本人はどういう事かいっちょん分からんやったらしいですけれども、昨日聞かせて頂いた竹葉会の人達はです。

もうそれだけ耳がこえてるんですよ。「はぁー素晴らしい」とこう言うわけなんですよ。私も素晴らしいと思いました。その人には御用が残っておるんだとその根性の○悪い人にはまだこの世に。どういう御用が残っておるかと言うと、人をイジメ係になっとるです。そのイジメ係という御用が残っとるわけです。

ですから、○イジメられた者はある場合にはイジメ殺される人もあるわけですたい。ね。(巖富士?)からあの(尾上?)がイジメ殺されるようなもんですとお芝居でいう。ね。ところがそのイジメられてです。いよいよ強くなる。イジメられていよいよ美しゅうなる。
イジメられて初めて神愛が分かったというような(?)もでけてくるわけなんです。

だから、もう(?)もうみんな(?)さん達がですね、その事に非常に感銘するんですよそれが感銘が出来るぐらいに信心が進んでるんです。はぁ(?)と、また家のババさん。ね、本当に(?)ごたる人とはまぁ思わんばってんです、ある嫁さんが言うとりました。私が嫁って来た(?)家のお母さんていう人はこちらを向いてからもうニコニコして話ござったっち。ほってん私の方を見るとそれこそまるっきり人相が変わるようにして私に がみがみものを言いなさったけれども、あちらに嫁らして頂いてもう10年あまりですか、もう本当に、まぁだ、まぁーだこれは自分が足らんと思うとりますけれども、努力させて頂きよりましたらお母さんが大変よくなられたというお話をしております。

ね、ですからその嫁さんの為にはです、こっち向いちゃニコニコ、こっち向いちゃ角ん出たような顔をする、さしちゃるその人がです。私の為に御用が残っておられたという事になる。「もう本当に一時期あげなばばぁ早うしにゃええが」ち思うたこつも私はあろうとも思う実際の話が。ね、ところが死なれんはずじゃん。その嫁子を育てなきゃならん。

ね、と言うようなあの発表があっとりましたがね。はぁ~なるほどまぁだ御用が残っておられるということです。だから私どもの周囲にあるところのこれは人間関係だけじゃありませんよ。

世の中からもうほんに天地の親神様っちいうことは、○「あなたそげん氏子が可愛い可愛いっちいいなさるんなら病気やらさせんでようわんなさるところにのうや」っち。   「もう世の中に難儀っちいうものは、もうすっぱりもう極楽のごたる世の中にしなさりゃよかとこれ神様は」と言うような事を言う人があるが、その(?)の信者さんと同じことです。

ね、○「あんた神様なら、あんたそのくらいの事してやったっちゃよかろうもん」っち。けれどもね、そういう難儀もそういう例えるなら病気もです。ね、そういう御用があるからその難儀はあるのである、病気があるのである事が分かるのです。だからそこから私どもの信心によってその事を頂いていかなければ、言うならば、馬鹿らしかということ。

言うならばその難儀から、○イジメ殺されるような事じゃこげんつまらん事はなかっちいうことになるです。ね。その難儀の為に心が真っ黒なるっちことは、もう半殺しにおうとるようなもんですよ。ね、だから信心が分からせて頂くとです。そこが分かるんです。

ね、そこに例えばおかげが受けられる( ? )ね。ですから私どもがここの四十八節に現れてくるところのこのおかげと(?)非常に難しい。一番可愛いもの、ね、子供をいや親としても一番可愛いです。ね、こどもの為なら自分の命を削ってでもと思うくらい。
その例えば子供が病気をしておる時にです。

いう事を聞かん時、素晴らしい例えですよね。ここんとこ。言う事を聞かん時にね、  「もう知らんぞ」ともうままよと、もういくら言うたって聞かんならほうからけとけと 言う時があろうがとおっしゃる。そういう心持ちになって、だから、んなら例えば子供が病気をしてから「母ちゃん、母ちゃん」っち泣く時です。ね、それをほってやると言う事はなかなか、ほっておけるよいう事はなかなかできるこっちゃない。

先日から、えー(?)ですね、善導寺の久保山の所の、おー一番したの孫陽子ちゃんちいう。陽子ちゃんじゃない。米子ちゃんちいいますが、その前あのー「口の中が痛い」とか熱がでたらするんですね、「どうしてじゃろうか」っつってお願いしよりました。   ところが、えー40度からその体温計測ったらでたんです。

そして全然ご飯を食べなくなってもう飲み物も飲まなくなったんです。それで初めてその口を見たところがですね、丁度したが2枚になっておるように口のこの歯茎がはずれてしもうとったそうですよ。(?)。

ほんに舌が2枚に見える「はぁーこれじゃ飲み物も飲まれまい」というのでですね。もうあのー丁度おばちゃんが東京へ行くという時でしたから、「とにかく親先生お願いをしてからお医者に見せて早せにゃ」と言うておばちゃんも気にかかりながら東京たったんです。ね。それであのーお母さんがいわいるあのー陽子さんがすぐお願いに出て参りました。

ね。「お医者にゃかけんでもおかげ頂く」と「一生懸命おすがりせんね」という事じゃった。ところがあなたもうそれこそ熱がその40度から下がらんわけです。ところが何日目でしたでしょうか、その(?)子供がそのー体温計をどうかあつかいよってから落としもせんとにバチっと割れたそうです。そん時に陽子さんの心の中にですね、「はぁ~こりゃもう体温計どんたよっとったっちゃいかん」と思うたらしいですね。

それからはもういわいるままよという気になった。もうその子供をほうからかしてから、あの一時の御祈念に参って来るようになりました・・・それから何日間かとにかく、とにかくもう水もあのー(?)ジュース、ジュースちょうだいジュースも飲まんようになる ご飯も食べんようになって五日間でしたよ。だから「もいほんに五日ご飯食べんならこげんやせるじゃろうか」っち言うごと痩せほそったそうです。

それをほうからかしてあの一時の御祈念に参っていよりました。ね。ここなんかはちょうどままよで「もう親先生がおかげ頂くよ」とおっしゃったその一言にすがってるわけです。ね、それから六日目でした。ここにあのー(?)さんと陽子さんと二人でその事にお願いに出て参りました。もうそれこそもうそりゃ真剣なお願いでした。それから私が「神様にお願いをしとくから牛乳を飲ませなさい」と私が申しました。

「とおろが先生私の米子はもう牛乳が大嫌いでごまいます」っち言う。「まぁ私がお願いしとくけんで飲ましてみなさい」ち。というて帰りました、それから茂さんがまたすぐ、お礼に出てきました。「そしたら先生もう本当に私ども目の前で牛乳をね、美味しいっちいうて飲んだそうです。「ほんにお取次ぎの働き」っちいうてからまぁ夫婦のものが喜びましたがね。

それからはもうずーっとおかげを頂いてからあのーもう今度ねご飯がなんでん頂けるごとなったらね、久留米になんとこっていう米子ちゃんが好きなその料理屋があるそうです。なんか食べ物のそこへ連れて行くちいうけんで昨日、うー親子四人ずれでですね、それをこう食べに行けるほどしにおかげを頂いております。

んーね、こういう時にですね、本当にあのままよよいう心があのーでるということ、そのきっかけがですね、親先生の一言もそうだろうけれども、もう体温計を割った時にですね、陽子さんの腹が決ったとうところが、やっぱ日頃信心しとらにゃ出来るこっちゃないでよね。おかげを頂いて、まぁあんなあーらもう不思議にご飯頂きましたからまた、またたくまに身が付いたような感じで、毎日今おかげを頂いております。

ね、そういうようにです。ままよという事は、実を言うたら大変難しい事。しかしそういう心になればですよ、心になればおかげが受けられるというおかげがです、もうこて約束されておるものだと言うこと。ね、それを共学しても、共学するならばです。ね、もう理の当然の事としてです。ね、そりゃ親先生のお取次ぎのおかげということもあろうけれどもです。本当は陽子さんの心の中に開けたままよというその心がです。

出来たから5と5と足したと同じ事じゃから10という答えがでたのですよ。ね、そういう例えばおかげを頂く為にも、日頃信心の稽古させて頂かなければなりませんがです。
まぁ今日はそのおかげの言わば現れ方のいろいろですね言うならばを申しましたです。
ね、竹葉会の方達のこと。それから昨日最後にここの高橋さんの奥さんが発表したおりました。

ね、それはさっきから申しますように、とにかく月に一回しかお参りが出来ないのでごまいますから、「神様どうぞ今月今日からまた本気で信心に家で取り組まなきゃならんから。私で取り組めれる信心の焦点をねお知らせ下さい」というて一生懸命御祈念、一時の御祈念の時にあわせて御祈念させて頂きよったげな。

(?)初めのあいだは「なんじゃろうかー」と思いとったらもう自分の周囲にですね、 もう自分が真中あって周囲からずーっとこう水が押し寄せてくるそれが水が引いては寄せ引いては寄せというところをくり返し頂いたそうです。はぁーこりゃどういう事じゃろうかと思いよったらね、最後にその水が丸くなってこうよってくるわけですよね、水が寄せてくる。

その真中にもう見事なですね、紫の玉を頂いたそうです。「ほれでもう私はもうビックリしましてからですね」っちいうてから昨日感激して話しておりましたが、そのー紫の玉、とはどういう事であろうかと、水がよってくるという事はどういうことであろうと。
というてその親先生からその事に対して御理解を頂いたこう頂いたというて最後にそれを発表しとりました。

ですからその事がなら今月の、おー竹葉会の方達の一月の焦点をここにおこうということに昨日はなりました。ね、水がよってくるということはお恵みが寄って来ると言うことです。ね、そのお恵みの中にはです。それこそんなら、あーね甘いものだけじゃない自分の好きなものだけじゃないということ。今日のご理解を頂いておりますとです。ね、そのお恵みの中にもそれこそいやな事もありゃ悲しい事もあるいろんな事が集まったくるのであってけれでもそれの全てが神愛だと分かれというのである。

その全てが神愛だっちいう、ね、そういう心で頂けるときにです。初めて紫のたまですね、いわいる安心の心が頂けれるのだと御理解いただいている。もうだからこれに焦点をあわせよう、今月はこれでいこう、という風に昨日は竹葉会話がでけておりました。
ね、だから私は本当にあの、これはみなさんところの若い嫁さん達は本当にあのー、
子供やらババさんが「その日一日私があずかっとるけん早行かんの」っち言うごたる雰囲気をです家庭の中に作ってです、まだ会に出席してない若い嫁さん達んところには本当にあの、これ宣伝してからでもあの解語に出席させられるようなお繰り合わせ頂かれたら
無理に言うたってでけんですから良いなと私は思ったんですけどね。

今日はまぁ四十八節からさまざまなえーおかげが受けられるえーというそのところに焦点をしぼってここではそういうままよという気になって信心してやれおかげが受けられるという事をまぁ言うならば、あー共学的に聞いて頂いた訳です。ね、分析してこういう気持ちにならりゃおかげが受けられるという当然のおかげとして受けられる、そのおかげの中には様々なおかげがあるといったような事をまぁ聞いて頂いたですね、どうぞ・・・。